ツルオン感想ブログ

映画や本や音楽に触れた時の思いを書いてきます。

生きることに迷ったら読みたい本:ヤノマミ

生物としての人間の本質をヤノマミの生活を通して考えさせられる本。

             

NHKスペシャルにて話題となったアマゾンの原住民ヤノマミとの150日の共同生活をまとめた本。残念ながら放送は見れなかったのだが、気になっていた番組だった。

ここ数ヵ月、日々の生活に閉塞感のようなモヤモヤしたものを抱えていた。心の底から生きてるって実感が欲しい、そんな思いをずーっと抱いていた。食べ物にも困らず、何不自由ない生活。不満はないはずなのに。

感覚的に現代社会と遠く離れた生活に触れればこのモヤモヤの原因がわかるんじゃないかと感じた僕は、夏にアフリカはセネガルに旅することを決めた。(これはまた別の機会に書きます)。それと同時にこのヤノマミの存在を思いだし、セネガルへの道程で読もうと手に取った。

 

森で生きること

彼らの一日は、男は日の出から夕暮まで行う狩り、女は畑仕事、掃除、炊事である。男たちは、食べ物があれば狩りに行かず、ハンモックでゴロゴロしている。必要ないときも狩りに出かけて富を溜め込もうという行動はしない。

簡単にいえば、腹が減ったら狩りをして、飯を食い、糞をして寝るということである。僕も食って糞して寝るためのお金を稼ぐために、毎日会社に行って仕事をしている。でも生きるための狩りと違って、その仕事には「お客さんのために」とか「やりがい」とかが勝手に付随してくる。もちろん、そういうものが全く無いわけではないのだけれど、それを根本にするんじゃなくて、生きていくために仕事してますってシンプルに済ませれば楽なのかもしれない。

 

生と死の輪廻の実感

第5章にこんな記述がある。

思えば、僕たちの社会は死を遠ざける。死骸はすぐに片付けられるし、殺す者と食べる者とが別人だから何を食べても心が痛むことがない。だが、彼らは違う。生きるために自分で殺し、感謝を捧げたのちに土に還す。今日動物を捌いた場所で明日女が命を産み落とすことだってある。ワトリキでは「死」が身近にあって、いつも「生」を支えていた。

 

彼らが生まれ、殺し、死に、土に還っていく円環を思った。彼らは体験的に自分がその円環の一部であることを自覚しているように感じられた。たぶん、彼らは全てを受け入れている。そう思った。森で生まれ、森を食べ、森に食べられるという摂理も、自分たちがただそれだけの存在として森に在ることも、全てを受け入れてると思った。~ 生まれて、死んで、また生まれる。それだけのような気がした。

 僕の人生だって同じだ。生まれて、ただ死んでいくだけ。けれど現代社会では、死は身近にないものでなかなか実感できないものだ。人生もそう簡単に死んで終わるものとは考えられていない。だから、生まれた時から未来の事を考えて、未来の為に行動する。その過程で、今を大事に生きることを疎かにしていたかもしれない。未来の成功のため、未来の不安を消していくために時間を使っていたかもしれない。

もしかしたら、僕が感じているモヤモヤは、今の目の前のことに重きを置いていないことが原因なのかもしれない。

もちろんだからといって、現代社会を否定する気はない。これだけ食べ物に困らず、自己実現の可能性のある社会があるのはすごいことだ。

ただ、ふと迷ったときに、ヤノマミのことを思い出して生きることの根本を考え直せれば良いと思う。

 

 

現代人が抑え込んでいるものがむきだし

ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。

だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕はそんな「常識」に慣れ切った人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れ切った人間だ。

ヤノマミは違う。~ 彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。

 さらにいえば、僕は自分の欲望でさえも巧妙に隠してしまっているのかもしれない。「善人」であることを演じるために。そして、今、何をしたいのかも自分自身でよくわからなくなっているのかもしれない。

 

人間もやっぱり生き物であり、生きるってこと、死ぬってこととか色々と考えさせられる内容でした。